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2012.12.30 00:36|未分類
「今年もあとわずかになりました。」と朝の情報番組で言っているのを聞き、「え?あ、そうか」と、はっとしました。カウンセリングルームを開業して以来とくに「え、まだ火曜?まだ水曜なん?」と1週間はとても長く感じるのですが、それに比べて1年はあっという間に思えます。

さて、この1年に読んだ中で私の思考におおいに刺激とヒントをくれた本の1つを紹介します。『暴力はどこからきたか―人間性の起源を探る―』、著者は山極寿一さんです。

著者によると、初期人類は、森林からサバンナに出た際、自分たちより体の大きい肉食獣などの捕食者から身を守るために群れを作り、仲間どうして助け合うなどの社会関係とコミュニケーション能力を発達させたそうです。その過程で脳が発達したと考えれば、人間はもちろん、群れを作る、すなわち社会生活をする霊長類の脳が大きいことにも合点がいきます。また人類は、広い範囲を移動するのにエネルギー効率(持久性)が高い二足歩行を獲得しました。捕食者から身を守りつつ食物を得るためには都合がよかったからとのことです。

さらに、人類はサバンナに出ることでおのずと上がった死亡率に対する対処として多産(初産年齢の低下と出産間隔の短縮)を選択したそうですが、二足歩行の獲得により産道の大きさが制限されたため、脳を大きくしたくとも頭の大きい子どもを産めなくなりました。その結果人類は、頭の小さい未熟な状態で産み、のちのち脳を大きくするために多大な労力をさくことになったのです。

それは同時に危険の多いサバンナで手のかかる子どもをたくさん抱えることになったということです。つまり、初期人類は、子育てを母親一人で行なえず、当然のこととして子育てを手伝ってくれる人間を複数必要としたのです(著者によれば、それが家族の起源の一つでもあるとのこと)。これはじつに興味深い点だと思います。というのは、人類が自然発生的かつ必然的に獲得した子育ての形は、夫はもちろんそれのみならず、夫婦をとりまくコミュニティによって行なうものであったと推測できるからです。

近年、子育てにおける母親の孤立が顕著であり、母親に子どもへの愛情を過剰なまでに強要する風潮も手伝って、母親個人にかかる育児の負担と責任が大きくなりすぎていると感じています。現代のこれらの背景には、核家族化、親戚づきあいの希薄化、近所づきあいの崩壊等があると想定されます。まるで初期人類が獲得した育児において必然であったコミュニティを現代人が失いつつあるかのようにすら思います。そのような環境では、母親には、普通に負うべき責任の範囲を超えた過剰な負荷がかかり、大げさかもしれませんがそのことは、母親が自身の子育てに肯定感を持つことが難しいだけでなく、失敗(間違い)をおかしはしないかという不安と、もうすでにやらかしてしまっているのではないかという(おかしてもいない罪に対する)罪悪感に脅かされる状況すら引き起こしかねないと危惧しています。

単純に比較することはできませんが、それでも現代人においても子育ては、母子をとりまく複数の人間によって行うことが自然だと思います。子育て中はもちろん妊娠中においても、いかにして母親が孤立しないようにするかが何にも増して優先されるべきであり、そのためには同性(女性同士)のつながりが重要ではないかと、実際に子どもを産み育ててきた経験からも感じるのです。私自身は、学生時代女性特有のグループ化(つるむ傾向)には違和感を覚えたり、悩んだりしてきた方ですが、それでもそう感じたことが我ながら興味深く、このことについて考えてきたこともまたあらためて書いてみようと思います。
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2012.12.30 00:32|未分類
前のブログを書いてから半年も経ちました。もともとぼちぼち書く気でいましたが、「これはなんぼなんでも」です。実際には、「ああ、このこと書きたいな」と思うことは何度かありましたがどうしても書くにいたらず…。なかなか書くにいたらなかった理由として幾つか思いつくものはあります。私事では娘の高校受験の影響が大きいのですが、このことから考えたことはまた別の機会に触れようと思います。他には、世の中の動き、とくに中国・韓国との領土にまつわる問題の影響が大きかったのではないかと感じています。というのは、夫と話していて「ああそうだったんだなあ」と気づいたのですが、私は思いのほか傷ついていたようなのです。

そのことから考えたのですが、女性は男性に比べ、直接、間接問わず理不尽だ、不当だと感じる出来事に遭遇した際、怒りを感じるだけでなく(怒りを感じるよりも?)、悲しくなる人の率が高いのではないかと(実際にはわかりませんが…)。その感情をあえて言葉にするならば、「ただただ悲しいとしかいいようがない」といった感じでしょうか。そういえば、「怒りを通り越して悲しくなる」という言葉を女性から、とくに内向的、情緒的な方から聞くことが多いように思います。

ただ、悲しいという感情は怒りの先にあるものなのでしょうか。経験上、不当な目に遭ったときに悲しいという感情を体験することの必要性を実感していますが、その感情に留まることなく、きっちり怒ることがより重要であると考えています。「怒りを通り越して悲しくなる」とは、全てがそうだとは言えないにしても、理不尽な状況にさらされ腹立ちを感じるも、自分ひとりの力ではどうあがいても改善できそうにない、そのどうしようもない状況に途方に暮れ、あるいは打ちのめされているか、自分の無力さを嘆いている状態ではないかと思うのです。それは、そのどうしようもない状況に怒り続けることができなくなった状態とは言えないでしょうか。だとすれば、悲しいという感情に留まることで抑うつを強めてしまうことも起こり得るかもしれません。

きっちり怒るというのは、もっともっと腹を立てろ、感情的になれということではありません。そもそも感情とは自然勝手に生じるものだから、怒ろうと思って怒れないわけですし…。きっちり怒るとは、自分が感じている違和感や理不尽さについての十分な検討を経て、その元となる不当さを決して許さず受け入れないという意志を自身に確認し、保持し続けることだと思っています。いわば極めて客観的かつ論理的な作業でもあるわけです。わたしどものカウンセリングがクライアント個人の内面分析のみならず、クライアントの家族や職場の人間、クラスメイトなど、クライアントの周囲の人々の性格・行動様式の分析を重視しているのは、上記の作業をきっちりやりぬくためにそれが不可欠であることが多いのも理由のひとつです。ただ、こうしてあらためて書いてみると、「きっちり怒るということはなんとも厳しいことだ」と思うのも本音、です。
2012.06.04 00:40|私のこと
 当方ホームページのカウンセラー紹介で、趣味に『節約料理』を挙げています。
 最近、知人に言われて、「ああ、そうだよな」とあらためて思ったのですが、趣味に節約料理とあれば、料理が得意、あるいは料理好きな人という印象、場合によっては女性らしい人という印象を持たれるかもしれないと。
 その印象を否定したくない気持ちもあるのですが、実のところ私は、料理がとりたてて得意というわけでも、めちゃくちゃ好きというわけでもなくて、趣味に節約料理を挙げたのは、ちょっと違う理由からなのです。

 カウンセリングルームを立ち上げる際、私たちは貯金ゼロからのスタートでしたので、たちまち日常生活において節約が必要になってきたのです(今も完全には解放されていませんが…)。すぐに始めることができて効果があるといえば、まずは食費の節約だろうと、節約料理に取り組んでみました。とはいえ、ストイックな徹底した節約はどうあがいても私には無理なので、献立をあらかた決めて計画的に買い物をする、食材を使い切る、の2点に絞ってやってみました。

 さて、実際にやってみると、食材を使い切ることの爽快感!「ああ、食べ物を捨てることって思っていた以上にしんどいことだったんだなあ、感じないようにしていたなあ」と思いました。
 それと、限られた材料を駆使してなんとかお腹も気持ちも満たそうとあれこれ工夫しているうちに、不思議と狩猟採集生活を思い浮かべている自分に気づきました。実際には天と地ほどの差があることは分かっていますが、なんともその空想が幸せで。ちなみに、狩猟採集生活は決して原始的で貧しい生活などではなく、豊かな食物と余暇に恵まれたものであったことがわかっているようです。

 得られた食材をできるだけ効率よく調理したり保存したり、ときには手間をかけたり、ときには省いたり…。その日の天候や、おそらくそれに影響を受けているであろう体調や気分に合わせて、限られた中ではあるけれども予定を変更しつつ…。ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、「おお、なんだか生きるための営み(料理)をしている感じがするぞ」という、この新鮮でちょっとわくわくした感覚が楽しかったので、ま、趣味といってもいいかなと考えたわけです。ですから、私の趣味を正確に言うと、「節約料理で得られる生きた感覚を味わうこと」ということになるのかな。

 ただ、やはり節約にしんどい面はつきものです。この感覚は持ち続けたいけれど、理想は、お金のことを考えなくても暮らしていけるくらいにお金がある生活だなあとしみじみ思うのも正直な気持ちです。
2012.06.02 01:34|私のこと
 私が臨床心理学専攻の大学院に入学してまもなくのことです。ある授業で一人の教員から、クライアントに年齢などの個人情報を尋ねられた際は、「どうしてお知りになりたいと思ったのですか?」と返せば、自己開示(この場合は、カウンセラーの情報をクライアントに教えること)を回避できると教えられました。私は、「そうするものなんだ」とすぐさまそれを取り入れようとしました。しかし、何かがひっかかってできず、かといってその教示を否定できる論理的根拠が浮かぶでもなし。そうなると、私の場合思考が停止します(ここで言う思考の停止は、考えようとしても観念・着想が浮かばないとか、判断ができなくなるといったことではなく、思考をどちらの方向にも進めようがなくなる状態とします)。
 いったん停止がおこるとそこから離れることもできず、やっとのことで達したのは、「質問に質問で返して答えない態度が失礼であることは明白なのに、そこを敢えてというからには、私の理解ではまだ及ばない、確たる根拠がそこにあるということ?」でした。ただ、それで解決とはいきませんでしたので、以降、「確たる根拠」を探すと同時に、一方ではその教示を棄却できる論理を探すことにしました。
 結果、今日に至るまで、臨床心理学・カウンセリングの教育現場において、私が納得のいく「確たる根拠」は得られず、一方、自身のカウンセリング経験、とくに夫と開業してからの経験においてはさらに、カウンセラーの自己開示をタブーとする考えを棄却できる論理と、それどころか、クライアントとの信頼関係構築、クライアントの不安軽減においては欠くことのできないものだという確信を積み重ねてきました。そのプロセスについては、いずれ詳しく書くつもりですが、すでに夫がじつに明確に書いており、私の見解も完全に一致しておりますので、まずはそちらを読んでいただけますと幸いです(→『安全策の危険性』)。

 さて、ここでは、私が入学して間もなくの知識も経験も浅い時期だったとはいえ、なぜ教員の教えをすぐさま取り入れようとしたのかを検討したいと思います。

 私が大学院に入学したのは30歳で、それまでは他学部を卒業した後、他職種(栄養専門学校研究室の研究員)に就いていましたので、門外漢とまではいかずとも、初心者意識が強かったのです。おそらくそこに、私自身が元々持っていた自分を小さく見積もる傾向(劣等感)が加わったのだと思います。劣等感があると、どうしても自分を小さく、同時に相手を大きく見てしまうものですから。
 ただ、ここでは私の側の要因だけではなく、環境(その場)の要因も考慮に入れなければ片手落ちになるでしょう。具体的に言うと、教員のきっぱりと言い切る表情、口調、声等の態度と、それを聞いている人たちの間に何ら不協和が見受けられなかったこと、そういった「それ(教示)を当然とする場の雰囲気」の影響です。
 大学院生と話す機会、若いカウンセラーのスーパーヴァイズ(指導)の機会に、彼、彼女らがカウンセリングにおいて複数のタブーを持っていることに気づきます。しかもそれらタブーをいつ、どこで、誰に言われたのかをはっきり思い出せないことが多いのです。それは決して彼、彼女らの能力の問題ではなく、私のように劣等感が作用することを考慮に入れたとしてもやはり、「それを当然とする場の雰囲気」によって知らぬ間に刷り込まれ、自身のカウンセリングが縛られているのではないかと思います。

 「それを当然とする場の雰囲気」によって、知らぬ間に自身の思考・言動に縛りを受けないために、私は、思考の停止に注目します。
 ただ、この停止は、かつて私にとっては劣等感の原因の一つでした。今でこそ、思考がどっちの方向にも動かない状態なのだと、だからこそここは流してはいけない、考えるべきところと分かっていますが、以前は自分がどういう状態にあるのか捉えきれていませんでした。周囲がぱっと反応して動いているのに自分は動けない。自分が何でそうなっているのかも分からず、勘が悪いのか、要領が悪いのか…。親からはあまのじゃくと言われることもあり、ますますわけが分からなくなりました。ひどいときには、頭が真っ白になり、即応できない自分を情けなく思っていました。
 しかし、この状態は、違和感を覚えているから、納得がいかないからそちらにも動けず、かといってそれを否定できるだけの論理が即時に浮かばないから生じるのです。つまり、行動(反応)の遅れや思考の停止は、勘や要領が悪いのでもなく、理解力に問題があるのでもなく、ただただ多数派の論理に反抗したいのでもなく、提示された眼前の物事や状況が孕んでいる矛盾(たいていは一見しただけではわかりにくい矛盾)に反応しているから起こるではないでしょうか。矛盾が大きく、複雑であればあるほど、自分が置かれている状況も、相手が何を言っているのかも分からなくなり、頭が真っ白になることすら起こり得ます。私どものカウンセリングルームに来談される方の中には、矛盾に敏感であるがゆえに、幼い頃から周囲と比べて反応や行動が遅く、そのことから劣等感を形成している人が、決して少なくありません。

 現代は、その場のノリに即時についていくことを良しとする傾向が強いと思います。ひどい場合には、ノリについていけない人を場の空気が読めない人として扱います。とにかく即応できない人に対する評価が低いのです。しかし、スローな人たちは空気が読めないのではなく、そこに何かしらの矛盾を見出すがゆえに即応できない、いわば矛盾を発見する人たちであることが多いのです。
2012.05.28 00:47|あいさつ
 はじめまして。幸朋カウンセリングルームの中林朋子と申します。

 夫(松波)とともにカウンセリングルームを立ち上げてから今年の4月で4年になりました。開室以来、夫がHPやブログ、ツイッターの中で、うつをはじめとする精神疾患やカウンセリング、世情について、自身の考えはもちろんのこと、私の考えも代表する形で書いてきています。それらが夫のみならず私の考えでもあることは偽りのない事実ですが、一方で、私が社会に公開することの全てを夫に任せ、自分の言葉で書いてきていない、これもまた事実ですので、4年たった今ではありますが、私、中林は「はじめまして」です。

 開室以来、心身の多忙が激増する中、カウンセリングは当然ですが、それ以外では、当面家事と育児、家計のやりくりに重心を置こう、これらは私の責務、と考え書くのはまだ先でいいと思ってきたのですが、それはじつに甘かった…。開業し、ひたすらカウンセリングを行なっていますと、大学に勤務していたときとは比べようもないほど、社会の構造とその問題がカウンセリングを通して見えるようになりました。そして、クライアント個人の分析だけでは決して十分とはいえず、環境・社会構造の分析が欠かせないということに、ますます確信が持てるようになったのです。そうした中で、自分の言葉で、すなわち自身の責任において社会に発信していかなければ、カウンセラーとしての仕事を十分に果たしているとはいえないと思い、このたびブログをはじめることにしました。

 私は、幼い頃より(カウンセラーになってからはさらに)、違和感を覚えたそこから思考が始まることがじつに多いのです(ひょっとすると、考えすぎだとよく言われる人の中にもいらっしゃるかもしれません)。そこで、私が自身の違和感と、そのもと(元)をたどっていく過程において考えてきたことを土台に、今、伝えたいことのあれこれを書いていこうと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
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プロフィール

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Author:counselingkoho
大阪市西区北堀江にて、夫(松波)とカウンセリングルームを運営しております中林朋子と申します。日々覚える違和感と、そのもと(元)をたどっていく過程において考えてきたこと、今、伝えたいことのあれこれを綴ります。

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